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天使なんかじゃない

「二十日鼠と人間」という映画を見た。
スタインベック(「怒りの葡萄」「エデンの東」の著者)の同名小説を映画化したもの。
簡単に内容を説明すると世界大恐慌時のカリフォルニアで、定住せずに様々な農地を転々としながら暮らすジョージとレニーの二人が主人公。
レニーは体が大きく力が強いが知的障害があり、子供ほどの知能しかない。
ジョージは小柄だが頭が切れ、そんなレニーの面倒を見ていた。
そんな対照的な二人がタイラー牧場に働きに来てから数日間で起きた出来事がこの映画のストーリー。
私は先にスタインベックの小説を読んでいたから結末を知っていたが、矢張りあのラストは胸に刺さった。
見ていない人のために詳細は言わないが、悲しい結末だった。
派手な音楽は殆ど使われず、映像もアクション映画のように目の回るカメラワークや斬新な構図はなく静かで美しい。
スタインベックの原作も登場人物の心情表現は殆どなく情景描写のみで淡々と進んで行くので、原作の雰囲気に近いように感じた。
ラストがどうなるか知っていて、それが変えられないと知っていても
「どうにか助かってくれ」
と願わずにはおれず、そうならなかった時は悲しかった。
最近、格差社会が問題になっていて「蟹工船」といったプロレタリアート文学がベストセラーになったが、私はこの映画や原作を鑑賞して欲しいな、と思った。
日本、特にネットでは少しでもレールから外れた人間を過剰に叩く傾向が強い。
例を挙げればきりがないが、レニーのような知的障害者や精神障害者といった「アタマ」の障害の人が事件を起こすと、
「キチガイは死ね」
と、ヒステリックに脊椎反射で「死ね」と叫ぶ「死ね死ね団」が跋扈している。
別に、知的障害者や精神障害者を「天使」と思えだの、彼らがやることなすこと全て許してやれだのとは言わないが、彼らを得体の知れない「邪悪なモンスター」と思い込み、「駆除」しろという発想はいかがなものだろうか。
私は昔、ひどい心の病に罹って心療内科に数年間通っていて、自分の心なのに上手くコントロールできずに酷く辛い思いをした経験があるので、そういう発想は非常に怖くて仕方がない。
この映画でレニーは様々な「トラブル」を起こすが、それは「悪意」からではなく、
「どうしてそれをやってはいけないか」
という判断ができない故からだったり、トラブルを「起こす」というより「巻き込まれた」「舞い込んできた」という方が正しいだろう。レニー自身「おいらはトラブルを起こしたくない」と言っているし、知的障害者は嘘が吐けないので、そのように思っているだろう。
例えば、「綺麗」「欲しい」と思ったら思わず手を出して掴んでしまう。
それが女性が着ているドレスであれば大問題だ。
掴まれた女性は大男にいきなりドレスを掴まれるから驚いて悲鳴を上げる。
レニーは悲鳴を上げられてパニックになって益々強くドレスを掴む。
女性は益々パニックになる。
女性はドレスを破られて逃げ出し、レニーとジョージはその時いた町を追われることになる。
別にレニーには女性を暴行しようという意思はなく、
「ドレスが綺麗だから触りたい」
と思っただけだが、女性やレニーに知的障害があることを知らない人間からすればとんでもないことだ。
だから、ジョージは牧場主の息子カーリーの美しい妻が現れた後、
「あの女が脚を見せたら目を逸らせ」
と言う。
そして、
「あの女はネズミの罠だ」
とも。
この映画が秀逸なのはこのようなちょっとしたセリフが伏線になり、悲劇的なラストを予感させることだ。
長年連れ添った老犬を自分で殺すことのできなかったキャンディーという老人が
「自分の犬を他人に撃たせるべきでなかった。自分でするべきだった」
というセリフも。
この作品は悲惨なラストも胸に刺さるが、それを引き立たせるのが、それ以外の明るい未来もあったのではと思わせ、その未来があればよかったのにと感じさせる「輝かしい瞬間」があることだ。
二人には夢があった。
自分達の農園を持ち、その土地からできる一番いいものを貰って生きること。
それを何度も二人で語り合っていた。
それが俄かに叶いそうになる。偶然二人の夢の話を聞いて、自分には金がある。その農場に自分も入れてくれるならのその金を出すから、とキャンディー(犬を殺された老人)は二人に提案する。
破産した地主に手紙を書いて上手く交渉しよう、手付金を100ドルくらい渡して、足りない金はジョージとレニーが一ヶ月この農場で働いて稼げばいい、おいらは兎を飼いたい、掃除をするのはわしだ。
レニーとジョージとキャンディーが一気に興奮しながら笑い合うシーン。
ラストの闇を更に濃くする明るい笑顔を三人は見せる。
また、農場で働くシーンは明るくアップテンポな曲が使われていることもあり、過酷な作業ではあるが悲壮感は少ない。
レニーは体が大きく丈夫で力が強いのでこのような肉体労働にはぴったりで、普通の人間であれば二人がかりで運ばなければいけない荷物も一人で軽々と運び、トラックの荷台にどんどん積んでいくので、一緒に働いている男が「あいつのスピードには参る」というほど。
これはレニーの持つ凄まじいパワーがいい方向に使われた場合だが、そうでない場合は。
レニーは牧場主の息子のカーリーに因縁をつけられ殴られる。カーリーは短気で粗暴な小男で、その僻みから背の高いレニーを目の敵にしていたからだ。そしてレニーはカーリーの拳を掴み、片手で握りつぶしてしまう。
無論、これは正当防衛といえるものだし、レニーが積極的に暴力を振るおうとしたのではなく、殴られるままだったレニーに対し、ジョージが「やれ!」と言ったからで(その後レニーは「傷つけたくなかったのに!」と泣く)、上手く制御ができなくなり、カーリーの拳をぐちゃぐちゃにする。
カーリーの拳を潰す際のレニーの興奮した顔と苦痛に呻くカーリーを描写しているのは誠意を感じる。
障害者を扱った作品は障害者を「天使」のような無垢で純粋潔白で善良な可哀想な存在として描かれるが(それが「健常者」を遠ざける原因)、この作品は障害者の「危険」な一面を捉えているところが深みがある。
そして、「危険」ではあるが、「邪悪」ではないところがミソだ。
レニーはネズミや子犬やウサギといった小さな動物が大好きで、撫でて可愛がる。
でも、力の加減が上手くできなくて本人は「優しく」している積もりでも首を折ってしまうことになり、ジョージがいくら注意してもそれを止めることができない。
本人に「悪意」など一切ない。なのに殺してしまう。
恐らく、一般人は知的障害者や精神障害者が起こす事件を彼らの言動が普通の人間からすれば不可解であり、その動機が解り辛いため(本人もよく解らないし、説明する能力もなかろう)、「気持ち悪い」と感じるので
彼らを「邪悪なモンスター」と誤解するのだろう。
レニーの行動にしたって、映画や原作の詳細を知らずに
「なぜだか動物を殺してしまう知的障害者」
と説明されれば、それは「悪意」からくる凶行、動物をいたぶる事が楽しくて仕方ない、快楽殺人にも似た行動としか捉えられないだろう。
レニーだって殺す積もりはなく、自分が可愛がっている裡に死んでしまった子犬を抱えて
「どうしてお前は死んでしまうんだい? ただ撫でていただけなのに」
と泣くのに。
レニーは力があるがその制御ができない。確かにそれは「危険」だ。でも、それだって正しく使われれば「危険」ではない。周囲が理解してくれておかしな行動をしないように監督してくれている人間がいれば必ずしも「危険」ではない。
レニーが「トラブル」を起こすのはジョージが目を離した時が殆どだ。そしてそれは「ハズミ」だ。
くどいようだが、本人は「傷つけてやろう」などという意志は一切ない。
様々な不運が重なった上での出来事であり、それは「健常者」が起こす事件と変わりない。
レニーは「加害者」でもあるが「被害者」でもある。
純粋で優しい心を持っているが「危険」でもある。
「天使」でもないが「悪魔」でもない、「人間」である。
知的障害者でも精神障害者でも何でもいいが、メディアがそういった存在を取り上げる際、彼らを「常に虐げられている可哀想な人たち」か、「不可解で気持ちの悪い凶暴で恐ろしい存在」といった「被害者・加害者」「善・悪」といった極端な二元論でしか語られない。
「人間」ははっきり善悪で色分けできるような単純な存在ではない。
だから私は、野島信司のドラマに出てくる障害者や病人が大嫌いだった。
彼らは「邪悪で強大な健常者」により常に傷つけられ虐げられて傷ついているが、それによって性根を曲げることなく常に「純粋」で「善良」な存在。
とにかく障害者や病人を傷つける側の人間は100%「邪悪な加害者」であり、障害者や彼らに味方する人間は100%「善良な被害者」。
ドラマや映画や漫画など、フィクションの力によって差別なり社会問題を訴える力は大きいし、才能のある人間が熱意を持って創作した作品、それこそスタインベックのような大作家が社会の底辺に生きる人間を描いたこの作品は多くの人間の心を打つ。
スタインベックは様々な労働に従事していたこともあり、このような「虐げられた人々」を目にして交わって同情的だったのだろうが、社会の理不尽や人間の弱さや狡さにも目を向ける現実的な視点とそれを描写する冷静さも持っている。
レニーは確かに社会の理不尽や人間の残酷さの犠牲になってしまうが、世の中の人間全てが冷たいわけではない。
牧場にはスリムという頭のいい男がいるのだが、彼は優しくレニーに対して理解があり、何かにつけてレニーに救いの手を差し伸べてくれる。レニーがカーリーの拳を握りつぶした時も
「あんたは機械に手を挟まれたんだ。本当のことを言ったらあんたのイジメをばらす」
とカーリーに口止めをする。
「頭の良さと人の良さは関係ない」
と優しいことを言う男でもある。
レニーが純粋だが「危険」でもあるように「弱者」が「善良」とも限らない。
農場には黒人労働者がいるのだが、彼はレニーに対して
「イカれてるな」
「お前みたいな人間にはジョージの言ってることが解らないだろ?」
と、普段自分だって色んな人間に馬鹿にされて悔しい思いをしているのに、同じことをレニーにする。
「弱い者が更に弱い者に噛み付く」
という理不尽とどうしようもない人間の弱さをきっちりと描いている。
レニーを守っているジョージにしたって、
「お前がいなければ俺はもっといい暮らしをしてたんだ!」
「お前さえいなければ!」
と、全部本心ではないにしろ苛立ちからレニーに対して暴言を吐いたりしている。
誰かが100%悪で誰かが100%善であれば、作る方は元より見るほうも楽だし、気軽に見れる娯楽映画などは別にそれでいいと思うが、もし社会問題を訴えたいのであればそんな単純な構造ではいけないだろう。
「加害者」も「人間」で「被害者」も人間。
「差別者」も「被差別者」も人間。
その二つは複雑に絡まり合い判然とせず、いつ立場が逆転するか解らない。
野島信司のドラマや24時間テレビに取り上げられる単純な「加害者=100%邪悪」「被害者=100%善」という構造では、加害者にも被害者にもリアルさを感じられず、単に感動(それも安っぽい)を消化されていくだけだろう。
自分は差別もしないし差別される側になることもないと思っている「普通」の人。
自分は知的障害者を罵倒したり殴る蹴るの暴行を加えたりなんかしないし、自分は知的障害者みたいな「キチガイ」じゃないもん。
それを揺り動かさなければ意味がない。
例えば、ジョージがレニーに対して吐く暴言は、相手が知的障害者や精神障害者ではなくとも、自分の子供などの被保護者に対して、憎しみやサディズミなどではなく暴力を振るったり暴言を吐いてしまうことがあるが、それと似たようなものだ。
撫でている裡に動物を捻り殺してしまうレニーのように、過剰な愛情で相手を押し潰してしまうこともあるだろう。
自分の恨みや不満を直接関係のないより弱い者に向かって吐き出すことだってあるだろう。
先述した「死ね死ね団」の人間のようにだ。
自分の中にはジョージもいればレニーもいる。虐げられる余り性根まで曲がってしまった黒人労働者もいる。
そのことに気付かせなければいけない。
それができなければ何を訴えても無駄だ。
例えば、私の母親がいい例だが、彼女は
「知的障害者は悪魔だ」
と苦々しげに、いかにも「弱者という名の強者は許せない」という口ぶりで言っていたが、彼女が私にしてきた、私の人間性を踏み躙る言動の数々がどれほど私を傷つけ今現在の私を苦しめているか知らない所か、それを
「私はあなたのためを思ってやっているのよ」
と言い放ち、それを解ってくれない私こそが悪いという態度を取る。
母は犯罪者ではないし、自分も他人も「普通の人」と思い、その異常性に気付く者はいない。
私だってできれば自分の母親が「異常」で、自分が受けてきた愛情が「異常」だなんて思いたくはなかったが、
そうとしか思えない。
それを話せば長くなるので今回は避けるが、自分も他人もその異常性に気付かない母のような存在は「悪魔」だと私は思うし、傍目から見れば私が母を踏み躙る強者のように見えるだろうが、私からすれば母こそ「弱者という名の強者」だと感じる。
差別も虐待も誰もがちょっとしたことから「差別する側」「虐待する側」になるのだし、今現在している可能性があるのだ。
「どうしてお前はそうなんだ! お前は本当にダメな人間だ! お前みたいな人間死んでしまえ!」
カッとなる余り思わずこのような暴言を口にする親は結構いるだろうが、もし本当に子供が死んでしまったらどうなるだろう?
「お前さえいなければ」
ジョージのこの言葉は半分本心だっただろう。
でも、本気でそうなればいいとは思っていなかったのも本心だろう。
ラストは恐らくは一人で列車に乗ってどこかに向かっているであろうジョージの顔が写されるが、彼の心中やいかに。
それは誰にも解らないし解ってもらえない。
それを痛いほど一人で噛み締めているのだろう。
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by volontaire | 2010-08-05 01:03 | 映画 | Trackback | Comments(0)